2018年4月11日水曜日

h30-4 水戸城 小幡城

h30-4-8 水戸城、小幡城址

昨年はマイナー戦国大名の里見氏を訪ねて、房総半島の城跡巡りをしていましたが、
今日は茨木県は常陸の戦国大名、佐竹氏です。
佐竹氏もマイナーですけどね。

佐竹氏は頼朝と同じく清和源氏の流れで、本来なら頼朝とは同格。
頼朝の挙兵の時に平家方に付いたことから、幕府を開いた頼朝に警戒され冷遇されます。
頼朝からは、同じ軍旗は許さぬ、これでも使えと、投げられた扇子がそのまま家紋となっています。
居城は太田城、茨木県は最北の小豪族でした。


《《《三の丸のお堀です。
水戸城は徳川御三家、水戸藩の居城ですが、この城は古く、築城が鎌倉時代初期の大掾(だいじょう)氏。
大掾氏が240年治めますが、関東戦国期のころ、江戸氏に乗っ取られます。


その江戸氏を追い出して、佐竹氏が太田城から移ってきたのは、戦国時代が終わった1590年。
その10数年後、佐竹氏も秋田県に飛ばされます。
《《《三の丸の県庁支所です。
佐竹氏は室町時代は足利尊氏にしっかりくっついて、南北朝の動乱、観応の擾乱をくぐり抜けています。


《《《巨大な堀切を渡って二の丸に向かいます。
室町の中期、享徳の乱のころは古河公方に付き、関東管領上杉氏と対峙しながら、近隣の小田氏、江戸氏、大掾氏と四つ巴の抗争を懲りひろげます。


《《《二の丸の中です。
時代が下って小田原の後北条氏が北上してくると、小田氏、江戸氏、大掾氏は後北条氏に飲み込まれますが、新潟の上杉謙信、房総の里見氏と組んで最後まで後北条に抵抗。

《《《桜がきれいでした。
しかし頼みの謙信は北条氏に押し込まれて和睦してしまい、
北からは伊達政宗がやってくるわで大ピンチ。
《《《本丸と二の丸の間に巨大な堀切です。
ところが1590年、難敵小田原北条氏が豊臣秀吉に屈してしまい、いきなり大チャンスの到来。

《《《巨大な堀切の中をJRが通っていきます。
石田三成の黙認のもと、長年抗争を繰り広げていた小田氏、江戸氏、大掾氏を一気に攻め滅ぼして常陸一国を統一。公称40万石(実高60万石以上)の大大名に成り上りました。
《《《お城の北側に那珂川、天然の堀になっています。
ここまででざっと400年、近隣豪族と切った張ったの殺し合いを演じていたわけでが、佐竹氏の栄華もここまで。

関ケ原の合戦が東軍の勝利に終わると、徳川家に目をつけられて、遠く秋田に十数万石で改易、減封です。
雌伏400年の後の、わずか10年の栄華でした。泣けますね。
《《《三の丸に戻って弘道館を見学です。
水戸藩は幕末の尊王攘夷運動の聖地。
なんたって水戸の黄門様が、将軍様より京都の天皇様の方が偉いよー、と書いてしまったから。
これが黄門様が編纂した大日本史。
これが討幕につながるんだから、徳川家からみればアホの極みですな。
佐竹氏ゆかりの城は県北の太田城ですが、太田城は何にもないよー、行くなら小幡城だよー、とのブログを見つけまして本日2件目は小幡城です。
駐車場は完備されています。
入り口はすでに堀の中。
1220年に小田氏の築城とも、1420年、上杉禅秀の乱のころですか、大掾氏が築城したとの2説があるそうです。
その後、1481年に江戸氏に乗っ取られ、1590年、江戸氏を滅ぼした佐竹氏が入ります。
堀底が通路です。
堀の中はマジで迷路で、容易に本丸まで行けません。
どっちに歩いているか方向もわからなくなり、敵として入ったら生きて出られないですな。
堀を上って本丸跡に来ました。

コンクリで人工的な水戸城と違って、小規模ですが手造り感が満載でよかったです。

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