2017年7月21日金曜日

h29-11 川中島、妻女山、姨捨山

h29-7-16  川中島、妻女山、姨捨山

甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の激戦の地、長野県の川中島に行ってきました。
善光寺平は四方を山に囲まれ南北に長く、川中島は細長い善光寺平の中央部。
長野県庁や市街の中心、そして善光寺は善光寺平の北側です。
この北部と中央部の川中島は、西から千曲川に合流する犀川で分かれていました。
当時犀川を挟んで犀川の北方から日本海までが謙信が守っている領土。犀川から中央部、南部が信玄が侵略した領土でした。

1561年、謙信は信玄に浸食された川中島全土を奪還すべく、犀川を渡り敵陣深く川中島の南方東、妻女山に陣城を築きます。
対して信玄。甲府から大軍を率いて、謙信を自陣に取り込むように川中島西方の茶臼山に一旦は布陣。さらに謙信の目の前を挑発するように川中島を横断、妻女山から目と鼻の先の海津城に入ります。
謙信は堅固な海津城を抜くことはできませんし、南北に縦長の善光寺平をノコノコ越後に帰ろうものなら、城から出た信玄軍に食らいつかれて壊滅です。
謙信大ピンチ!!
ここから信玄の啄木鳥の戦法、謙信が見抜いて鞭声粛粛、夜、河(千曲川)を渡わたり、川中島で信玄の本隊と大決戦、謙信、信玄の一騎打ち、と続くわけです。
このあたりのことは小学生のころワクワクして読んでました。
http://www.furin-kazan.jp/nagano/tatakai/zukai4.html



長野と言ったら川中島より前に、牛にひかれて善光寺でしょう。
朝の善光寺参道です。
長野駅から2キロほど歩きます。
山門に到着。
午前中なのに人が多い。
外人さんもたくさんいました。
国宝の本堂です。
善光寺詣りを終えて、川中島へ南下します。

川中島古戦場史跡公園です。
信玄、謙信一騎打ちの銅像前です。
次に謙信が敵中に陣を敷いた、妻女山に来ました。
トンネルをくぐって見上げると高速の道路標識。
上にも車を置けますが、標高100メートル位なので下から歩きます。
水不足の中、自称毘沙門天の化身、謙信がエイ!と突いたら湧き水が出てきました。(嘘だー、笑)
展望台があります。
あいにく小雨模様で景色は今一つ。
善光寺平北方の長野市街です。

いちばん上は飯綱山です。
信玄が最初に陣を敷いた、対岸の茶臼山にも行ってきました。
標高1300メートル? こんな高いところに陣を敷くわけないじゃん。おそらく陣はもっと下の山麓でしょう。見つけれませんでしたが。
茶臼山の中腹から妻女山方向、下界です。
最後に善光寺平の南端、棚田が美しいといわれる姨捨山です。ふもとに車を置いて登ってきました。
姨捨駅はスイッチバク。
昔、長野から登ってきた蒸気機関車は長い登りを一気に登れなくて、ここで一服したそうです。
今は上下線のすれ違い駅として使われています。
長野から、駅の外側から坂を登ってきた貨物列車も駅を過ぎて、バックしてホームに入ります。松本から坂を下ってきた列車をやり過ごすと、再び坂を上っていきました。
駅から下界です。
あいにく雨が降っており眺望はいまひとつ。
駅から棚田まで下りてきました。
遠くに飯綱山です。
見上げると、山の斜面に駅と、さらにその上に高速道です。






激戦の後、武田信玄は川中島を含め善光寺平を手に入れると、それ以上の北進はやめて南進します。反対する跡取り息子を殺してまでして駿河の今川領に侵攻。東海の雄、今川家はここで没落です。おいおい今川氏とはさっきまで同盟してたんだよ。ほかの地でもセコイことや、火事場泥棒をしてるしね。信玄にとって、約束や同盟は破るためにあるもの。戦国の習いとはいえ極悪非道のカス。北方領土の露助以下。

謙信も川中島の失地回復は諦め、関東の北条氏を懲らしめるとの名目で関東平野に合計12回も越山します。
が、義に生きるとかカッコいいこといって、確かに局地戦では無類の強さを発揮しますが、何せ大局的な戦略眼が無いものだから関東平野を荒らしまわるだけで終わり、関東に領地は一寸たりとも得られませんでした。荒らされた方の領民はホントいい迷惑。どこが軍神じゃい。戦オタクのおバカでしょ! 北条氏からは越後の痴れ者と呼ばれていたそうな。

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