2017年7月12日水曜日

h29-10 三舟山、佐貫城

h29-7-9 三舟山、標高139メートル

マイナーな関東戦国史。
その中でもさらに弩マイナーな、小田原の北条氏と小国安房の里見氏の40年、数代にわたる抗争。北条氏綱(祖父)、氏康(父)、氏政(子)vs 里見義堯、義弘父子の因縁の泥仕合です。

関東に進出した新興勢力の北条氏に第一次(1538年)、第二次国府台合戦(1564年)と大敗して一方的にボコられていた古河公方配下の里見氏。
と思ていましたが、1回だけ里見氏は大勝しています。
それが三舟山合戦。1567年のことです。
調べてみると、それ以外にも遠く越後から上杉謙信を呼んできて、北条氏とは結構といい勝負をしていたみたい。

第一次国府台合戦(1538年)のころ、中央では1534年に織田信長が生まれており、1544年信長の父、信秀が隣国美濃に攻め入って斉藤道三に返り討ちにあっています。

三舟山合戦の1567年といえば、中央では織田信長が足利義昭を奉じて上洛したのが1568年です。
ここ三舟山は、里見を攻略しようと東京湾を渡って築いた北条氏の最前線の兵站基地です。

案内板にはそんなこと書いてないなー。
整備された駐車場に車を置いて、山頂まで早速登ってみます。
ここは大河ドラマのロケ地として使われたみたいです。
山頂までスムーズに登れるので、当時の堀切などは埋められちゃったんでしょうね。
山頂の北条軍の陣跡です。
攻勢に出た里見軍はここまで攻め上がったのだと思います。
里見氏も義堯、義弘父子のころが最盛期。
1574年に父義堯が、4年後の78年に子の義弘が没して、上杉謙信の関東越山も中止、里見家のお家騒動も重なって北条氏に押し込まれていきます。
最前線の基地だけあって見晴らしはグッドです。



眼下に駐車場も望めます。敵の動きも判るってもんです。

マムシに注意、の看板があります。
次に三舟山から10キロくらい真っすぐ南下して、佐貫城に寄ってきました。
ここは三舟山に対する里見軍の最前線基地でした。
駐車場はないですが、しっかり案内が残っています。
ジメジメしていて、まじでマムシが出そうなところ。
二の丸と本丸を繋ぐ土橋です。
戦時は堀切だったと思います。
左右の池から蚊の大群に襲われました。
本丸の展望台から東京湾が望めました。

三舟山合戦で名前が上がるのが、北条方の太田氏資。
名将太田道灌のひ孫にあたります。
埼玉県は岩槻の岩付城から出張って陣を敷いていましたが、里見軍に攻め立てられてこの地で討ち死にです。
この人、反北条陣営の父親を岩付城から追い出してまで北条方に参陣しました。
負けておめおめと岩槻まで帰れなかったのでしょう。
武門の習いとはいえ、悲しい話ですね。


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